ゲームクリエイター図鑑No.005北尾 雄一郎#1「努力を最大限してあとは当たりを待つ」(前編)

ジェムドロップ北尾氏 東京ゲームショウにて

「ゲームはおもしろい、ゲームを作ってる人も実はおもしろい」

多種多様な技術を持った人々が集まるゲーム業界。あの魅力的なゲームたちは、どんなゲームクリエイターが生み出しているのか。ベールに包まれた「ゲームクリエイター」の生態を解き明かし、この地に生息する「ゲームクリエイター図鑑」の完成を目指す。その過程として、一部のレポートを公開しよう。※今回は、ゲームクリエイターズギルドの宮田も参加し、意見交換をしています。

 

クリエイター図鑑 No.005
今回、お話をお聞きしたのはジェムドロップ代表の北尾 雄一郎氏。ジェムドロップを創業して10年を迎えた北尾氏はどのようなクリエイターで、どのような夢を持っているのか。東京ゲームショウにブースを出展し多忙な中でお聞きしました。

とてもユーモラスに自身の体験を語っていただき、また自身の思い描くゲーム会社運営についてとても熱のあるトークを聞くことができました。

 

日本一ソフトウェアに就職し、半年で作ったRPGが大ヒット

――今年、ジェムドロップは十周年だとお聞きしたのですが、北尾さんはどういう風にゲーム業界に入ったのでしょう?

北尾さん 僕らの時代だとゲーム専門学校ってなくて、当時HALさんがようやくできたぐらいなんですよ。で、僕は情報系の短大に行って、趣味でゲーム作っていました。趣味のゲーム作りも当時で言うとPC98とかで作っていたんですね。それもいきなり作ったわけじゃなくて、通っていた中学と高校にパソコンがたまたま置いてあって、たまたまできる先輩が一人いたんですよ。で、教えてもらって、ちょっとずつ作り始めたんですよね。そこから短大行くまでに自分の小遣いでパソコン買って、ゲームを作り始めるんですけど、当時の実力は大したことなくて、マシン語も使えずBASICで小さなゲームを作ってるぐらいだったんですよ。

――当時(1990年代前半)はまだまだゲーム業界への就職が今みたいに、体系だってないんですよね。

北尾さん 就活した時にこれも運が良かったのか、ソニーさんが一次選考まで進んでインテリジェントシステムズさんの最終面接まで行ってたんですよ。で、もうそれ以外は全部バーッと落ちたりして、結局受かったのが日本一ソフトウェア(以下日本一)さんだったんです。僕が、日本一さんが創業して初めて採用した新卒なんですよ。社員数が当時2人に対して、新卒6人採用って。おかしくないですか?(笑)実際には日本一さんと兄弟会社の会社もおなじ社屋にあって、6~7名ほどいらっしゃったんですが。

――新卒が全社員の半分になってる(笑)

北尾さん この時に僕と新川さん(元日本一ソフトウェア代表の新川宗平氏)が入って、実は同期なんですよ。彼は営業で、僕はプログラマーで入って切磋琢磨してたんですけど、最初、自分はやっぱり実力がなかったわけですよ。今でこそ日本一って大きい会社ですけど、当時はすごろくゲームとか麻雀とか花札とか作ってたんですね。

――実は新川さんと同期だったんですね。それは何年頃ですか?

北尾さん 1994年とかだからPS1が出たぐらいですね。当時、日本一はいろんな受託開発をして、アイマックス(I’MAX CORP)さんの『デュアルオーブ 聖霊珠伝説』ってRPGが出たんですけど、実は日本一で作ってるんですよ。日本一の前身になるプリズム企画っていう会社があって、もともとはサン電子の人たちでファミコンで『デッド・ゾーン』とか作ってた人たちが人を集めて作ったのが日本一の原型なんですよ。って、話がだいぶずれちゃった。(笑)

で、話を戻すと入社してからアドベンチャーゲームとかパズルゲームとかを作ってたんですけど、僕らも若かったんでもっとこう、流行りモノが作りたいみたいなのがあって。ちょうど同じ時期にガストさん(現コーエーテクモゲームス)のことを知ったんです。当時ガストさんは長野にあって、日本一は岐阜にあったんですけど地方ディベロッパーとして精神的に刺激を受けていたんです。当時はネットも発達してないしファミ通とか見て、「あ、ガストさんって長野なんだ」って。そうしたら、ガストさんが『マリーのアトリエ』を発売されてヒットしていて「やばい!中小企業でもRPG作ってヒットさせれば!」って僕らは思ったわけです。

――お隣の県のライバルが作ってるんだしいけるんじゃないかみたいな。

北尾さん そう。当時経験がないからできるかできないかとかじゃなく、なんかやればできそうみたいな。別に綿密な計画を立てたりとかしてるわけじゃなくて、僕らにもできるやろみたいな(笑)もうアホなんですよ(笑)無知って強いですね。

――つよい。ある意味若さですよね。

北尾さん それで、当時は日本一の業績もあんまり良くなかったところに新卒が結構な数入ったので、なんとかしないとっていうのもあって新川さんとか若手の僕らでRPGの企画を立てようってなって、企画を出して半年で作ったのが『マール王国の人形姫』なんです。

――えっ、半年?

北尾さん 半年です。今考えるとめちゃくちゃですよね。でもこれまで、麻雀とかを2ヶ月とかで作ってたんで開発期間半年は結構長いんですよ。

――今でいうハイパーカジュアルみたいな開発だったわけですね。

北尾さん ハイパーカジュアルとスケジュールは同じ感覚ですが、内容は濃かったですね。それで、半年で作った『マール王国の人形姫』がね、当たったんですよね。確か10万本くらい売れてるんですよ。これがきっかけで日本一は伸びていくんですけど、僕はちょうどマスターアップした時に辞めちゃったんです。マスターアップが終わってから、その後トライエースさんに応募したんです。トライエースさんもね、資料送ったら面接なしで受かっちゃったりして。

――なし!?

北尾さん 当時ってネットがないから、ポートフォリオ送ったりとかも郵送ですし連絡も全部FAXか電話なんですよ。それで、送った後に留守電が入ってて「いつから来れますか?」って言われて。「なんだこれ」って逆に怖くなったから電話で「書類見ていただいたと思うんですけど、一回行って話してもいいですか?」って言って行ったんです。

――すごい留守電だ……それで逆に面接させてくれと頼んだわけですね。

北尾さん で、なんで僕をいきなり採用しようと思ったんですか?って聞いたら当時、電撃PlayStationに体験版のディスクをつけて売ってて、『マール王国の人形姫』の体験版が入ってたんですよ。で、トライエースの人が遊んでくれてたらしくて、僕の履歴書にプログラムはほぼ僕ともう一人でほぼ作りましたって書いてあったから、じゃあ即採用だ。ってなったんです。で、面接の時に細かく話したら、もう是非是非ってことになってそこから十七年にいたんですよ。

なので、僕は学生の頃からロケットスタートってわけではなくて、社会人になってからちょっとずつ積み上げてやってきたみたいな感じですよね。

当時を振り返る北尾氏。

――自分で何か作ってゲーム会社に応募したっていうところがスタートなんですね。

北尾さん そんな感じで運もあるんですけど、僕は努力を最大限してあとは当たりを待つみたいな考えは正解だと思っていて、運がいいというのもあるんですがその手前で必要な要素は結果的に全部揃えてきたなっていうのがありますね。それで、トライエースにいる間はずっとRPGを作ってました。RPGって要素が多いゲームなので、過去の経験はとても活きていました。『ヴァルキリープロファイル』作って、『スターオーシャン3 Till the End of Time』作って、『ヴァルキリープロファイル2 -シルメリア-』を作ってセガさんの『エンド オブ エタニティ』作って……と、そこまでずっとプログラマーをやってたんですね。

――ずっとRPG作ってるんですね。当時の開発についてもお聞きしていいですか?

北尾さん 当時のトライエースさんって他のインタビューでも書かれているんですけど、企画書ってカッチリ作ってなくて、コンセプトや押さえるべきポイントがバーッと書いてあるんですけど、仕様書もほとんどないんですよ。これが僕にとって結果的に良かったし、仕事してて楽しかったんですけど、割と細かな仕様やプレイフィールはプログラマー任せだったんです。

――今だと怒られるやつだ。PS1の頃って結構複雑になっていませんでしたか?

北尾さん 怒られるやつですね。ファミコンの頃はわりとプログラマ任せで、その延長がまだ許されてた時代だったんですよ。で、それのおかげで自分でも作れるようになって、自分で考えるから結構鍛えられましたね。あと調整も、強くするにはどう数字をいじればいいとかっていうのはだいぶそこでノウハウがたまって、ありがたかったですね。

――挙げられたタイトルって、当時の表現としても結構踏み込んだタイトルだったじゃないですか。ああいう表現とかも割とプログラマー主導でやったんですか?

北尾さん 時代が進んで後半のプロジェクトになるほどだんだんプログラマーがやらなくなりましたけど、PS1の頃はドット絵を勝手にプログラマーが直したりとかしましたね。いま思うととても酷いことなんですが。これはしょうがなくって、バーンって殴った時にもう1ドットリーチが長い方がしっくりくるとか、タイミング的に3フレーム詰めたいとか、修正を全部頼むと時間がかかっちゃうんで、現場で直しちゃったり、必要なエフェクトをプログラマが描いちゃったりとかしてましたね。

――戻しがあると時間がかかってしまいますよね。アクション性の気持ちよさとかも割としっかり見て作っていたのもあるのかもしれないですね。

北尾さん もちろん企画の方も見てて、調整は入れていくんですけど、企画さんが調整入れるまではこっちで作ってみたいな感じでしたね。なので、手で触ってわりと細かいところまでやったりしてましたね。そんなこんなでやってきて、PS3の頃になって。僕はずっと独立したかったので、そうなるとプログラムだけだと頭打ちになっちゃうんで、じゃあプロデュース側もやっていきたいと会社に相談をして、トライエースの中でプロデューサーに転向してレベルファイブさんのお仕事とかをさせていただいたりしてましたね。

そのころが2010年頃で『パズドラ』がヒットしてるのを見て、スマートフォンで小さいチームでゲームが作れるじゃんっていう波がその前後に来るんですよ。それで、会社作るかっていうふうにシフトをしていったんですよ。それが2013年の5月ですね。

ジェムドロップ創業から

創業当時のオフィス。全てはここから始まった

北尾さん うちの会社のオフィスって調布市にあるんですけど、当時は調布市が貸してくれるインキュベーション施設があって家賃2万円とかで小部屋が借りれるのでそこに入って、プログラマとして一人で出向して生活費稼いで、戻ったらゲームを作ってって、さらに出向して倍働いて給料を貯めて、二人目のプログラマが来て……次を採用してってやっていきましたね。

――お金を借りずに自費でやっていったんですね

北尾さん お金借りれるようになったのは会社を立てて半年後くらいでしたね。10年前だと銀行口座を作るところから一苦労でした。当時はネットバンクもそんなになくて。銀行に事業モデルを説明したりもしましたね。2人目のプログラマは前の会社の同僚で、3人目は2人目の専門学校時代の友達で、4人目が新卒のプログラマーで、このころから新卒を入れていって、そろそろアートを入れていかなきゃいけないってなって縁故のアートを採用して、それから自然応募の企画を入れてってちょっとずつ増やしていったんです。

――プログラマ出身の社長がアートとかプランナーを採用する時は判断に苦労すると聞きますね。

北尾さん 難しいですね。ただ、僕は運がよくてこれまでずっと多岐に渡ることやってきたんですよ。ドット絵を描いたりPS2の頃だとカメラ制御やアート周りの調整もやってて、上手い絵が描けなくても見てわかる部分があったり、ゲームデザインにも絡んでたりしてたんで、ある程度自分で判断できるので、それがうまく作用はしてる気がしますね。

最初に送られてくるポートフォリオや作品の選別は固定のメンバーでやって、それを現場と再度確認するというやり方をしてるんですけど100件とか来ても現場の時間を使うのがもったいないんで。年間300~400件ぐらい来てて、これは学生さんにぜひ覚えておいて欲しいんですけど、1つのポートフォリオって30秒見てないですよ。何かつかむものがいりますよね。

宮田 数が多いですからね。ゲームクリエイターズギルドでもゲームとか企画が山ほど来る中で、企業さんに見てもらっても表紙やムービーの段階で判断されちゃうこともありますね。「掴み」って大事ですよね。

北尾さん 昔で言うと平積みされてるゲームパッケージの表を見てまず手に取ってくれて、裏を見て買うってなるから実質二枚で売れるかどうか決まるわけです。ポートフォリオとかもあれと一緒だと思うんですよ。表紙を見て「おっ」てなって次のページを見たら勝ちなんですよね。それぐらい大切なんですよって知ってほしいですよね。

これまで開発したタイトルが並ぶジェムドロップブース

――もともと独立をしたかったとお聞きしたのですが、それは理由があったのでしょうか?

北尾さん 昔のクリエイターって、一人でゲーム作りたい人が多かったんですよ。別にプログラマーになりたいとか、アーティストになりたいとかじゃなかったんですよね。昔は作りたいゲームがある。じゃあ、何する?プログラムを覚えないとできないよね。じゃあ、覚えます。プログラムはできた。絵をどうする。じゃあ、絵描くかみたいな。3~40年前のクリエイターってみんなそうなんですよ。自分の作りたいゲームを作るにはどうすればいいか、社長になるしかないのみたいな。

宮田 表現者としてはある意味正しい道ですよね。

北尾さん あと、小島秀夫さんも経営やりながらクリエイターやられてますけど、その理由って裁量が持てるからなんですよ。社長をやりつつクリエイターをやるとお金の配分から人事まで全部責任を持ちながら自分である程度コントロールできるんです。大変なんですけど、一番都合のよい仕組みなんですよ。でも、僕、社長はできないんでって他に渡しちゃう人とか、もしくはその逆の方もいらっしゃるんですけど、片方しかできなくなっちゃうので僕はどうしてもやりたいんですよね。

いままで開発会社にいて、歯がゆかったのは裁量権がなかったことなんですよ。人を投じたいとかスケジュール調整したいとか、このアイデアを実現したいというのができなかったのでそれができるようになるには経営が必要っていう風になりましたね。ゲームを作りたいっていうのがやっぱり最初にあって、ゲームつくりにこれが必要だからこれをやろうとか、必要にかられて覚えてるだけですよね。最近の流行りは逆になってる気がしますね。プランナーになりたいとかアートをやりたいとか。

――そういった職種になりたいみたいなところもありますし、作るものも●●みたいなのが作りたいんですみたいなのが増えている気がします。

北尾さん 今はだいぶ減りましたけど、●●みたいなシューターを作りたいとか、▽▽みたいなアクションを作りたいとかそういう応募がいっぱい来たりして、それはうちに応募する企画じゃないよっていうのは一時多かったですね。

宮田 今、世にないものを作りたいっていうより、●●の作品に携わりたいみたいな憧れベースの人が増えてきてるように感じますね。これは学生もそうですけど、現場にいる人にも増えてる感じがします。

北尾さん 今は続編が増えたからでしょうね。僕も気をつけてるんですけど、作品のファンが入社してくるようになってきてるんですよ。うちは、ファンをなるべく採用しないようにしていて、ファンが開発に入っちゃうと俺の知ってる●●はこうじゃないとか言い始めるんですよ。そうなると新しいものができないようになっちゃうわけです。ファンであることが良いベクトルに動くこともありますが、多くの場面では良くない方向性に働くことが多いのです。ある一定は仕方ないんだろうなとは思いますけどね。

――続編が増えているのは業界的な課題というか、創作者が少なくなっている気はします。本当に心からこれを世に問いたいんだっていうショーケース的なのを試す現場が少なくなってきちゃうんじゃないかと感じますね。

北尾さん リスクもあるのかなって思うんですよね。ネットで叩かれたりもしますし。今は叩かれたりするのも昔と違って、上司からちょっと怒られたとかクロスレビューで2,2,2,3みたいな評価を受けたとかじゃなくて、ネットにわーっと書かれるのが影響が大きいかなと思うんですね。このあたり人を育てる系の話でいうと、僕は昔の方が良かったなって思うのはコミュニティがちっちゃかったんですよね。例えば田舎でおじいちゃんと一緒に将棋やり始めて、おじいちゃんに手加減してもらって勝ったりとかして、勘違いして公民館行っておじいちゃんのより強い人とやってもみんなにちょっと褒められてうれしくなって、ちょっとずつ階段を登るみたいな。実は大したことないんだけどいい感じに勘違いしながら上に上がってくるみたいなのがあったと思うんですよ。でも、今は外に出たらオンラインで、いきなり世界戦で、すごい強敵にボコボコにされたりして。俺ってできるかもしれんみたいな勘違いが起きにくいんじゃないかなって。

――ある意味オープンワールドで強豪と対戦みたいになってる

北尾さん そういう環境がね、それはちょっとうまくなんとかならんのかなって思ってて、そのいわゆるコンテストってすごいいいと思うんですけど、いきなり全世界大戦にならないような、ステップアップできるようなのがいいんじゃないかとか考えていて。Unityのインターハイとかのように、中高生とかの応募に絞ったりとか、地方で絞って開催するとかしながらやるといいのかなと思うんですね。

宮田 ゲームって、エンタメなので人によって評価が違うので0点or100点みたいなものじゃないと思うんですよ。自分に刺さってなくても、ある人にとってこれは100点っていうのもあるし、ゲームクリエイター甲子園もコンテストとしては大賞を決めますけど、他に100個ぐらい賞があって、いろんな観点の賞を用意していますね。様々な面から、才能の卵を発掘できたほうがいいなって感じますね。

――光ってるところは光ってるって言った方がいいですよね。学生の話もでましたが、北尾さんも専門学校を回って学生の作品を見たりはされますか?

北尾さん そうですね。九州や関西、北陸とか名古屋あたりはたまに行きます。僕が地方出身というのもあるかもですが、東京の学校さんに行く機会はそこまで多くないです。学校数も極端に多いですし。

宮田 地方の学校も結構気合入ってる学生や学校も多いですね。最近行った北海道の学生さんたちも熱量高かったです。授業終わった後、学校全体で放課後集まってみんなでゲーム作ってますみたいな。そういう周りが熱意ある所に行ったらやっぱやる気になるんですよね。

北尾さん なので、全部は回れないんですけど地方の学校に行って説明会してっていうのはやってますね。

――ジェムドロップは10周年を迎えて、作りたいゲーム作りとか想像していたようなことって出来てますか?

北尾さん 難しいですね。10年やって、やらなきゃいけないことが多いなって。受託もやるしオリジナルも並行して開発するというのがやはり難易度が高い。個人開発やインディーと違うのは、給料や就業時間というある意味でサラリーマン的な縛りの中で開発をしますが、そのあたりの縛りを超えてリビドーとか狂気をそのまま労力に変換することも可能なわけです。そこを意識してあえてサラリーマン的な個人開発をされている方も居るとは思いますが。でも我々ってそれなりに給料とか会社の維持費を払いながら作んなきゃいけないんで、一本作るのにお金とか時間がかかっちゃう。本当はオリジナルのラインを増やしたいんですけど、なかなかこうバランス取るのが難しくて。あと人員が(受託に参加して)空かないみたいなものとかあって、オリジナルとのバランス取りをずっとやってはいるんですけど。

――難しいですね。

北尾さん 少しずつ人数が増えて、人も慣れてきて、ちょっとずつバランスを変えられるようになってきたかなみたいな感じですね。時間かかるなって思いますね。10年でこれかーって。

例えば、トライエースさんって今年28年目で、アークシステムワークスさんが35周年なんですけど、自社でパブリッシングしてパッケージ出してる開発会社さんって、やっぱり20年超ぐらいになってるなって思うんですよ。インティクリエイツさんとかもそうですけど。でも、他の社長さんって20代で独立されてて、僕が独立したのって37歳なんですよ。倍の速度とかでいかないとって感じたりとか。時間がかかるっておもってはいけないんですけど、結果時間がかかってる会社は多いなと思いますね。

『エンダーリリーズ』を作ったBinary Haze Interactiveさんも、10年以上システム開発会社をされていたそうですが、社長さんは元ゲーム開発会社の方で、とりあえず一旦遠回りして別会社を立ち上げてお金貯まったってなってからゲーム開発やるぜってなったって別のメディアのインタビューを読んで知ったんですけど。ええーっ!すげえ!て思いましたね。急がば廻れですよね。

――会社を運営しながらってなると、かなり大変ですね。動く金額も大きいですし。

北尾さん インディーは1人とか2人なら個人の才能でなんとかなるんですけど、規模が10人とか20人とかになると筆頭がすごくても、チーム自体の能力や結束力が高くないと作れないんですよね。それで、自分としてはチームをちゃんと作ろうって思ってやってます。自慢になるのですが、実はうち離職率が低いんですね。これは企業文化の形成に注力しているのが功を奏していると感じていて、企業文化作れば、ツーカーっていうか「ああ、こうすればいいんだな」とか「あの時のこんな感じでやっといて」「ああ、分かりました。せっかくなんで前のより良い感じに仕上げときます」みたいな前向きな文化が重要だと思っていて、そういう文化構築ってやっぱ時間かかるんですよね。ただ、その文化のおかげで個人開発ではなく集団でものづくりをするメリットを享受できていることは確かです。

――後半に続く

後半では、会社経営とゲーム作りについての北尾氏の考えや想いをお聞きします。ゲーム会社の社長はどんなことを考えているのか。ぜひご覧ください。


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