海外大手で活躍したCGクリエイターがフリーの道を選んだ理由|榊原 寛【クリエイターヒストリア#11 後編】

クリエイターヒストリアとは
クリエイターヒストリアとは、ゲーム業界でお仕事をしているデザイナー、プランナー、エンジニアなどのクリエイター向けに、キャリアデザインをテーマに実施するセミナーイベントです。

業界で成功を納めているクリエイターは、今までどのようにキャリアを積んできたのでしょうか……。現在に至るまでの努力や道のり、人生の転機など、その歴史に迫っていきます。

クリエイターヒストリア#12 前編のおさらい

海外大手で活躍したCGクリエイターがフリーの道を選んだ理由|榊原 寛【クリエイターヒストリア#11 前編】

世界中を旅するクリエイター、榊原 寛(さかきばら ひろし)さん。とあるきっかけから海外の大手ゲーム制作会社に就職し、CGクリエイターとしてスキルを磨いてきました。そんな榊原さんがなぜフリーランスの道を選んだのか、アクティブな彼のヒストリアに迫ります。

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クリエイターヒストリア ゲスト紹介

榊原 寛(さかきばら ひろし)

ゲスト:榊原 寛(さかきばら ひろし)氏

 

2K GamesやCD PROJEKT REDなど海外3ヵ国の大手スタジオにエンバイロメントアーティストとして所属し、大規模オープンワールドゲームの背景班とりまとめ役等を勤める。その傍らで「畳部屋」名義でUE4を使ったゲーム個人開発も行う。

2018年6月にリリースされた『NOSTALGIC TRAIN』が、文化庁メディア芸術祭審査員会推薦作品に選出。また、BitSummit THE 8th BITにて『最涯(さいはて)の列車』が、技術やアイデアなどが革新的な作品に贈られる「革新的反骨心賞」にノミネート。

現在はフリーランスで業界人向けセミナーや、人気Youtubeチャンネル「ゲームさんぽ」でゲーム開発技術を解説するなど、様々な活動を精力的に行っている。

Twitter ▶(@SakakibaraEnv

 

チェコ・アメリカ・ポーランド……世界中を駆け回ったクリエイター人生

『FINAL FANTASY Ⅺ』や『アサシンクリード』といったゲームをきっかけに「ゲームの背景を作りたい」と思い、株式会社アルヴィオンでファーストキャリアをスタートさせた榊原さん。

その後海外の大手ゲーム制作会社、2K Gamesで着実にスキルを身に付けていく中、会社の方針で開発地をチェコから本社があるカリフォルニアに移されたそうです。それに伴い、榊原さんもチェコからアメリカのカリフォルニアへと社内転勤を経験されました。


宮田
チェコからアメリカに、ということですが、転勤の話を聞いていかがでしたか?
榊原

それまで住んでいたチェコ・プラハの美しい街並みにとても思い入れがあったので、去らないといけないのが凄く悲しかったです。

とはいえ海外に住むのは次が2ヵ国目だったので、転勤に対するハードルはそれほど感じませんでした。

宮田
当時はどんな仕事をされていましたか。
榊原
一番最初は背景モデラ―としてテクスチャーを作ったり、ちょっとだけレベルを配置したりしていました。途中からはチームリーダーの一人として任命され、オープンワールドの街を作るチームのリードをしていましたね。
榊原

『マフィアⅢ』では、1960年代のアメリカ・ルイジアナ州のニューオーリンズという街をモデルにした“ニューボルドー”という架空の街を制作しました。

その時はリードシティアーキテクトという立場で、背景チームを取りまとめる役を務めました。

宮田
遂にオープンワールドの街作りに携わられたんですね。自分たちが作り上げたものが形になった時はどんな気持ちでしたか。
榊原

“ニューボルドー”は雰囲気のある歴史的な街並みで、ある地域には工業地帯を設置するなど、複雑かつリアルな街を大きなチームで作り上げていきました。

巨大なオープンワールドの街作りをチームの真ん中で関わることができたので、満足感と達成感がとても高かったですね。

宮田
そこで実績をしっかりと出した後、次のステージとしてポーランドのCD Projekt REDに行かれたんですよね。
榊原

はい。実は『マフィアⅢ』が完成してしばらく経って、「次はどうしよう」と迷っていました。

そのままアメリカにいるのも選択肢の一つでしたが、以前まで住んでいたヨーロッパの生活が恋しくなったんですよね。それに、アメリカにいると僕が好きな旧市街地や歴史的な街が近くになくて……。

榊原

そんな時にちょうど『サイバーパンク』のトレーラーを見て「このゲームは凄そうだ」と感じたので、CD Projekt REDに応募をしました。

前作の『ウィッチャーⅢ』のストーリーやビジュアル的にも良いゲームだったので、ここに転職したら面白そうだと思いましたね。

宮田
オープンワールドゲームはプロジェクトの期間が凄く長いので、プロジェクトの完成が一つの大きな節目になって、そのまま残るか別のプロジェクトにトライするかを考えるようになるんですかね。
榊原
やっぱりそういう人は多いと思います。僕自身も単にオープンワールドゲームを作るだけでなく、違う会社の作り方を学びたいと思ったので転職を決意しました。
宮田
この業界だと“違う会社に転職する”という考え方よりも、“違うプロジェクトに参加する”という考え方の方が一般的なんですかね。
榊原

その考えが一般的だと思います。違う会社のプロジェクトに参加して、また戻ってくるということもあるので。

ほかの業界・業種の人からすると「この人、転職しすぎで大丈夫?」と思われるかもしれませんが、様々なプロジェクトで経験やスキルを積み重ねていく、というのは大事だとされていますし、皆もポジティブに捉えていると思います。

宮田
なるほど。「そのプロジェクトでどういう経験を積みたいか」が大事なんですね。

 

夢を達成した先にあった“違和感”。榊原さんが個人開発を始めたきっかけとは

宮田
CD Projekt REDでは、どのような仕事を担当されましたか?
榊原

シニアエンバイロメントアーティストとして『サイバーパンク2077』の制作チームに入りました。

ただ、ここでも「色々と口を出してまとめて欲しい」と言われたので、シティコーディネーターとして“ナイトシティ”という架空の街を作るチームを取りまとめていましたね。いわば管理職の一人として関わっていました。

宮田
なるほど。では、実際に街作りをしてみていかがでしたか。
榊原

『サイバーパンク2077』の街はかなり凝ったデザインですし、今までにないような密度とサイズ感なんですよね。

なので、これだけの規模感で誰もやってなかった挑戦をさせてもらえて、しかもこれだけのクオリティーで作れたというのは凄くやり甲斐がありました。

榊原

その一方で、アルヴィオンでの経験を思い出すと若干の不自由さも感じて。自分たちで意思決定をしながら少人数でクリエイティブを生み出していた頃に比べると、大規模なチームでは“自由なクリエイティブ”はあまり感じられなかったんです。

なので自由にクリエイティブができるように、この頃から個人制作を始めるようになりました。

宮田
インディーゲーム開発においても、チームを組まずに本当に榊原さんお一人で全部作られていたと伺いました。
榊原

仕事では色んな人と関わりながら作っているので、逆に自分だけで全部を作りたいと思ったんです。初めから最後までなんとか完成させて、steamで配信するところまで。

宣伝のプレスリリースをメディアさんに送る、という作業も一人でやっていたんですが、仕事でやっているのとは全然違う側面からゲーム作りにアプローチできて楽しかったですね。

宮田
『サイバーパンク2077』を作られている時期から、既に活動されていましたもんね。ですが、本業との両立は大変じゃなかったですか。
榊原

うーん、どうなんでしょう。平日の仕事が終わった後にコツコツ作るので、「いかに効率よく短期間で作れるか」を考えて悩んだりはしましたが、大変という印象はないですね。

ある意味で仕事とは対極のことをやっていたので、むしろ良いリフレッシュになっていました。作るのにもの凄く苦労した・徹夜をした、ということはなかったです。

宮田
なるほど。ゲーム制作の疲れはゲーム制作で癒す、みたいな感じですか。
榊原

まさにそうです。仕事で背景のモデルだけちまちま作ったり沢山ミーティングをしたりするのと、自分一人で全部何かやるのって本当に違う作業なので。

本業と副業のバランスが上手く取れていたので、むしろ片方だけをするよりも疲れが取れるような感じですね。

宮田
なるほど。こういった“違和感”は、背景モデルを制作する夢にたどり着いて、実際に経験できたからこそ感じられたことなんですね。
榊原
そうですね。やっぱり実際に体験してみないと分からないことですから。そういう部分では、この世界に踏み込んでみて良かったと思います。
宮田

大きなプロジェクトだけでは満たされず、本業と並行して個人でクリエイティビティを発揮する、という方は今後も増えてくるんじゃないかと思っています。

榊原さんの周りでもそういうスタイルを取られているクリエイターは多いですか?

榊原

そうですね。CD Projekt REDの同僚でも、インディーゲーム制作活動をしている人はかなり多いです。そのまま独立して自分の会社を設立する人もいます。

ポーランドって実はインディーゲームが盛んなんですよ。CD Projekt REDの大手の他にも、個人や少人数開発のコミュニティーイベントも複数ありますし。なので、自分としては“よくある副業”として個人開発をやっていますね。

宮田

今回このイベントに参加されている方の中には、「大きな組織ゆえに自分のクリエイティビティが発揮できない」「もっと違うものが作りたい」と感じている方もいらっしゃると思います。

そういったフラストレーションを抱えたまま鬱屈した日々を過ごすくらいなら、むしろ個人開発を副業で行う方が全然ヘルシーな気がしますね。

榊原

仕事で「やりたいのにできない」と思う気持ちは、創作意欲にも繋がると思います。

創作ってエネルギーが要りますし、モチベーションがないと作れないと思うので、そういう意味では仕事でのフラストレーションをバネに個人で制作するのは良いことなんじゃないでしょうか。

宮田
そういった想いを持って個人開発をする方が増えてくると、もっと面白いゲームが生まれてきそうですね。

 

これまでの人生が詰め込まれた個人開発ゲーム

海外での大規模開発では一つのプロジェクトにかかる制作期間が長く、AAAタイトルの場合5年ほどかかるそうです。チェコに移った当時の榊原さんは30歳、CD Projekt REDを退職するまでに関わって完成したプロジェクトはわずか2つだったのだとか。

榊原

もちろんやりがいは凄く感じられましたし、楽しかったんですが、40歳を迎えたこともあって「もっと多様な経験をしたい」と思ったんです。

なので今年(2022年)の1月にCD Projekt REDを退職して、個人会社を設立しました。

宮田
自分の力だけで全てをこなすのは大変だと思いますが、個人制作の楽しみはどういったところにありますか?
榊原

単純に私好みのものを制作して、それを褒めてもらえるっていうのは快感ですね。

何でも自分でやってみるのが好きなので、音楽から何から何まで興味を持って、それらをまるっと触って最終的に自分で組み立てられるので、とても面白いです。

宮田
ご自身で作られたインディーゲームは、今までご経験や学生時代に学ばれていたことなどを投影して制作されているんでしょうか。
榊原

ゲームのアイデアを昔から温めてたわけではないんですが、オリジナルで制作した『NOSTALGIC TRAIN』の田舎の街は、子どもの頃から大好きだった鉄道模型のレイアウトをイメージして制作しました。

コンパクトな世界に色んなものが点在しているように作ったんですが、そういうのを“おもしろCG”で再現してみようと思ったんですよね。

榊原
2作目の『最涯(さいはて)の列車』は山や谷などが自動生成されるんですが、自分が実際に列車に乗ったときの「どんな景色が広がるんだろう」という高揚感を再現できたら楽しいな、と思って作ったので、結構自分の心情は反映されているかもしれないです。
宮田
榊原さんのこれまでの歴史が凄く表現されていて、まさに榊原さんの人生を追体験しているような感じがします。特に『最涯(さいはて)の列車』は歴史が詰め込まれているな、という感じがありますよね。
榊原
ちょっと恥ずかしいですけど、そうかもしれないですね。制作している時は「自分を詰め込もう」という意識はなく、「これは面白そう、楽しそう」というものを積み重ねているだけなんですが、こうして言われて改めて気づかされました。
宮田
『最涯(さいはて)の列車』には絵がたくさん飾られているじゃないですか。あの絵も榊原さんが描かれている絵なんですか。
榊原
著作権フリーの画像を置いている場合もありますが、基本的にはそうですね。一人で制作しているので丁寧に作り込むことはできないですが、Photoshopで描いて列車の絵にしました。
宮田
そうなんですね。それと、音楽もかなり拘って作られていますよね。
榊原
音楽もほとんどがフリー素材なんですが、1曲か2曲ぐらいだけ自分で簡単に打ち込んで作った曲も入っています。
宮田
なるほど。冒頭で仰っていたピアノや旅行、油絵といった趣味が全て活かされていますね。個人開発のゲームは制作者の色が出るので、凄く面白いな、と実際に遊んでみて思いました。

 

「まだまだ時間はあります」今、悩みを抱えている全てのクリエイターへ

宮田
もしタイムマシーンがあったら、「あの頃に戻ってやり直したい、ここは変えたいな」と思うことはありますか?
榊原

ないですね。これまでお話して分かるかもしれませんが、「これがしたい!」と決めて一直線に進んだわけではなく、色んなことに興味を持ちすぎて自分が何をしたいのか分からなかったんですよね。

色んなことを経験して「これはちょっと違うな」と思うこともあったので、もっと一直線に来られれば良かったのかもしれません。ただ、ありがたいことに色んな経験ができたからこそ、これまでの人生を詰め込んだ作品を作れたんだと思います。

榊原

それにチェコに転職した時も、ゲーム業界での経験しかない状態だったらきっと採用されなかったでしょうし。

なので「いつかの時点に戻って迷走している自分を一直線に変えよう」とか、そういうことはあまり思わないですね。悩みながらの人生ではあるけれど、今のままで良いのかなと思いました。

宮田

榊原さんがこれまでに経験されたこと全てが今に繋がっているように感じました。

学生時代には「何か一つ夢を見つけなさい」「天職に就きなさい」といったように、ある種の強迫観念じゃないですが、こういったことを言われることがある思います。そういった部分はどう思われますか?

榊原

北欧やヨーロッパには「ギャップ・イヤー」という期間があって、大学入学前や就職するまでの間に大学ではできないような様々な経験を積む、という考え方があるそうなんです。

自分にとっては学生時代にアフリカに滞在したり、インドに旅行したりして得た経験が、自分にとってのギャップ・イヤーだったと思います。

榊原

改めてこれまでの人生を振り返ってみて、ハタチそこそこで「今後はこれを一生やっていこう」なんてとても決められませんでした。

仮に何か決めたとしても、それは嘘なんじゃないかという気がするので、今将来について悩んでいる学生さんには「まだまだ時間はあるよ」と言いたいですね。

宮田
ありがとうございます。場所や条件に縛られずフラットに、“自分が楽しいこと、ワクワクすること”を第一に考えて歩んでこられたんですね。
榊原

まさにそうですね。私はずっと迷い悩み続けてはいますが、一貫しているのは「自分にとって楽しいこと、ワクワクすること、やりたいことができるか」ということ。

そんなクリエイターになるためにはどういう形が一番良いのか、その答えがすぐに出ないこともありますが「迷っては探して、また挑戦する」ということはずっと続けています。

宮田

確かに迷うことはあるでしょうが、きっと榊原さんの大きな軸は変わってないような気がします。

今何かに迷っていたとしても、何か自分の中で芯になるようなことがあれば大丈夫なのかもしれないですね。

榊原

そうだと信じたいですね。

自分のコアな部分が言語化されていなくても、その“何か”を羅針盤のようにして「今の場所で生きていくのか、違う場所で生きるのであればどの方向に進めば良いか」を照らして進めば良いと思います。

宮田

その羅針盤がずれていなければ、いつかゴールにたどり着くと言いますか。むしろ色んな道を進んで、遠回りした方が楽しい、という風に感じました。

本日は貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました!

榊原
ありがとうございました!

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